鈴木家豆知識
鈴木さんのはじまりは?
 全国でおよそ200万人の「鈴木さん」のはじまりは、当家の本家である和歌山県海南市藤白の「鈴木屋敷」が発祥です。
 この鈴木屋敷はもともと熊野の新宮にあり、首長は熊野速玉大社の神官を勤めておりました。
 のちに平安時代、熊野街道(現在の熊野古道)の玄関口 「藤白」に移り住み領主となり、地域の人々を束ね、宿や食料を提供。道案内を努め、熊野信仰を伝え、旅の安全を祈願しました。
ちなみにスズキの語源は
 刈りとった稲穂を積み上げ、種籾(たねもみ)に魂を宿す風習がありました。
 これが「ホヅミ」→「ススキ」→「スズキ」と変化。いつしか一族の呼称となりました。もともと鈴木姓は熊野信仰の広がりと共に東日本で多く広まり、現在は東海、関東地方に集中して分布しており、関東ほどでないにしろ東北地方にもかなり多いようです。また、明治時代になり。すべての人が苗字を持つことがゆるされ、民衆がその地域の神社の神官(鈴木氏)に相談に行き、「私も、鈴木になろう!!」となって全国に広まったととも言われてます。
 当家の先祖は前記の「鈴木屋敷」91代当主の鈴木三郎重家です。平安時代末期に源義経の重臣となり、源平合戦後に平泉に行き、落ち武者となって秋田県羽後町に土着しました。
  現在では、全国の「鈴木さん」が交流する「全国鈴木サミット」や地域毎の「鈴木会」が開催されておりますので、足を運んでみては。

鈴木三郎重家って?
 当家のご先祖様は「鈴木三郎重家」と申します。
 前記の通り「鈴木屋敷」91代当主ですが、当時は那智の豪族「熊野水軍」の総大将でした。
 源平合戦の折、一の谷の合戦に敗れた平家は、源氏が弱い水軍によって最後の決戦を、と図っていました。これを察知していた源義経は、鞍馬山時代に行き来のあった「鈴木三郎重家」に熊野水軍の援助を求めました。
 そこで先祖は、弟の亀井六郎重清とともに主従の盃を交わし、屋島の合戦、壇ノ浦の合戦に勝利したのですが、義経の兄、源頼朝に追われ平泉に逃れます。このときの様子がよく歌舞伎で見られる「勧進帳」です。
 文治三年(1187年)奥州平泉(岩手県 世界遺産 平泉)の藤原秀衝(ひでひら)を頼り、高館に住んでおりました。

 この間-文治五年(1189年)に重家は紀州藤白の実家に手紙を送り、主君義経と、弟の亀井六郎の消息を伝えています(これは江戸時代 天保年間(1830~1844年)に当時の当家38代当主杢之助が鈴木宗家をたずね、宗家118代鈴木善重氏から書簡の写しを受け、掛け軸として現在も残っております)。

 平泉で1~2年ほど過ごしましたが、藤原秀衝が亡くなった後、その子泰衡は、頼朝に寝返り、大軍をもって義経を襲撃しました。文治五年4月30日、義経は北上川のほとり高館時仏堂に立てこもり、弁慶ほか七人の家臣とともに奮戦力闘しましたが、「衆寡敵せず」とみて、自ら火をかけました。
 義経は、その直前に鈴木三郎重家を召され「汝は紀州藤白に父と妻子あり。立ち帰って孝養をつくせ。我は、汝の弟、亀井六郎重清を連れて蝦夷に落ちる。」との厳命を下し、主命に従いこの場を立ち去った と言われております。
 高館より三人の従者を連れた鈴木三郎重家は、奥羽の山険を西に越え、最上に入り、羽黒の山の近くに行ったところ、「我このまま紀州に落ちてあるを、もし頼朝の耳に達しなば、追手がかかるは必定。」と思い、家来、竜神六右ェ門尉に命じ、「我は高館にて主君とともに討死」とさせ、形見の品々を持たせて紀州藤白に帰したのです。
 その後、重家は羽黒山の神殿近くに、鎧、兜、太刀等を埋め、姿をやつしてさらに北へ進み、秋田領を目指して落ちていったのです。
鈴木家は曲り家ですか?
 「曲がり家」とは岩手県南部地方に多い型式です。
 見た目は当家と同じように、L字型の建物ですが、「曲がり家」の突出部には馬小屋だけの型式で、出入り口はありません。
 当家のようなL字型の建物は、東北・北陸地方の日本海側に多くある「中門造り」といわれてます。
 中門には馬屋のほか、出入口や作業所・トイレなどを設置しております。これは冬期間でも家の中で、作業(仕事)ができ、馬の世話などをした造りです。

鈴木家の大黒柱は?
 みなさんは「古い家の柱や梁は太い」と思われてませんか?実はそれは正しくありません。
 当家の建築年代も17世紀後半(築300有余年)の建物で、秋田県最古の住宅といわれてますが、太い柱や梁はありません。
 「古い家で柱や梁が太い家とは、築200年以降の建物に存在します」
 当家のように300年以前の建物には太い柱や梁は存在しません。
 それは建築当時、カンナ(木を削る大工道具)というものが存在しませんので、本当に古い家には、太い木材は使用しません。ただ、当家の奥には大正4年(1915年)上棟の土蔵(染付蔵)があります。ここには目を見張るような太い梁がありますのでご覧ください。
バケモノザシキとは?
 当家の主屋の一番奥には「バケモノザシキ」という部屋があります。この部屋は 昔、この地に辿り着いた落ち武者をかくまった部屋と言われてます。先祖も平泉の落ち武者となって、この地に土着したこともあり、その後も落ち武者たちを、かくまった部屋です。私も幼少期から両親に「この部屋は絶対にあけるな!!」と云われて現在に至っております。
 いい伝えとして・・・様々な伝説もあるようです。
 毎年8月13・14・15日は開放し、盆供養をしております。バケモノザシキをご覧になりたい方はお盆にお越しください。
他に茅葺き民家はあるの?
 当家がある秋田県羽後町には、北東北最多の茅葺き民家の棟数を有しております。平成25年の調査では空き家・小屋等含めて80棟ありました。この数は全国でも有数です。当家では定期的に「羽後町茅葺き民家見学会」と称し、羽後町の茅葺き民家のご案内を致します。
 羽後町には築350~370年前に建てられた「茅葺き民家」が沢山あります。昔ながらの直屋(すごや 長方形の形)や当家のような「中門造り」など多種多様です。現在もお住まいの為、内部は見られませんが、外観などは風景にマッチした素晴らしい絵画をみているようです。某TV番組でも「日本の原風景」として取り上げられたこともあります。
 興味のある方はご連絡(イベント情報を参照)をお待ちしてます。